きたない!失礼だ!見たくもない!!
最初は米粒ほどの湿疹が 手のひらの下部に大きく広がってしまった
もともと短い生命線が消滅しつつある

23才の頃つきあっていた人と
名古屋栄の路上で手相見の前に立った
「42才で循環器の病で死ぬ」と言われた
ハッキリと冷酷なまなざしで死を宣告された
個展の準備などで東京に住んでいて 定職に就いていなかったが
広告写真家を目指していた私は
広告業界の"寵児"「ライトパブリシティー」の門をくぐる決心をした
彼女はライトに入れば結婚しようと言ってくれたし、、、
東京オリンピックのポスターを撮影した早崎 治 篠山紀信は
フリーにになっていたが、安斉吉三郎 吉田忠雄など
錚々たる広告写真家が在籍していた
秀と優がほとんど しかし美学だけは良の成績証明書と
5点の作品を携え 知人に紹介された写真部長の吉田忠雄に会いに行った
感触はよかった 書類選考はパス 面接試験を受けることになった

小学生のころから成績はよくなかった
オール3 体育と音楽は2
3つ上の姉はいつも学年のトップにいて
6年生のときの担任に「姉さんの爪のあかでも煎じて飲め」と
毎日のように言われ続けたが成績はオール4をつけてくれた
私の心は逆に傷ついた
"負け組"へのはじまりであった

ライトへは入れたのかって!?
昭和通りに面した本州製紙ビルにライトがあったのだが
試験だからといってそう早く行っても時間を持て余すだけ
篠山紀信は当時高価で特別目を引いた「リンホフテヒニカ」を
片手にぶら下げて面接に臨んだそうだが
私は時間ぎりぎりに行こうじゃないか
有楽町でお茶を飲み時間の調整をした
したつもりだったのだが 歩いても歩いてもライトは遠かった
始まりの時間から10分は過ぎていた

だからというわけでもなく 実力がなくて落ちたのだろう
採用は1名 月光浴写真家石黒賢治が入ったようだ
写真部には学校の先輩で川人忠幸が居たのだが
彼にもよろしく言っておけばよかった と思ったが後の祭だった

負け組は決定的になった
和代さん
げんきですかー!!